• 経済・社会, 雑文 20.10.2009

    Twitterでの、isologueさんのつぶやきにすごくインスパイアされたので、投稿。

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    しかし「距離が縮まる危険」もある。直接接したら好感度高いから当選してるわけで。(亀井大臣とメシでも食ったらファンになっちゃう可能性高い。)「離れている」ことによって、論理的におかしいものをおかしいと言える。(Re:記者クラブ外会見)

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     亀井氏がオンライン上で記者クラブ外会見を行ったことを受けての発言だが、以前ホリエモンの講演で、ちょっと怖い話も聞いたので、これを目にしたときの感想を記しておこう。

     ネットの世界には様々な有識者達が持論を述べておられる。感情的な意見はあまりなく、どちらかというと論理を重視した意見が多い。顔が見えず、性格が分からないからこそ、論理性が何よりも重要視されるのだろう。世の中にはすげー頭のいい人がたくさんいるなぁ。といつも驚かされる。エンジニア出身の人がパワーブロガーとなっている面も論理的な議論に一躍買う理由となっているかもしれない。

     僕はかねてより、これだけネットの世界で有意義な議論や政策に対しての妥当な指摘がされているにもかかわらず、何故、政治の世界ではそれが反映できないんだろうか。という疑問を持っていたのだが、その謎が解けたような気がする。

    つまるところ、論理で人を動かすか情理で人を動かすかの問題に行き着くのではないか。
    この論理と情理のぶつかり合いは、どのような組織でも発生しうる問題で、双方が正しくかみ合わなければ組織は誤った方向に向かってしまう。

    軍隊に例えて言えば、論理を担当するのが参謀本部で、情理を担当するのが将軍やあるいは政治家などの意志決定機関だ。

    「論理」はいうまでもない、論理的に考え方を示し人を動かすやり方だ。ビジネスの世界では、ロジカルシンキングや様々なデータ分析手法として知られる。

    「情理」はまだ学問として十分確立されていない分野で、人の心に訴えかけて、人を動かすやり方だ。ビジネスの世界ではリーダーシップという言葉でひとくくりにされる。

     さて、日本には「和」や「義理人情」を尊ぶ気風がいつの頃からか、あった。高度経済成長期の日本の主役は、優れた力を持ったエンジニア達だったが、おそらく彼らには論理の素養はあったに違いないが、彼らの論理的思考や技術力を発揮する分野はそれこそ発展期の日本には無数にあり、エンジニアリングの才能を経営に向けようとするヒマも余裕もなかった。経営についてあれこれ考えなくても、市場は成長していた。結果として、経営は論理も情理も備えた松下幸之助や盛田昭夫といった天才達に委ねられた。

     そこに大前研一という天才が現れる。エンジニアであり国際人でもあった彼は、日本的ではないサラリーマンの第一世代といっていい。論理を追求し、経営に反映することを主張する。時は「松下幸之助」や「盛田昭夫」といった天才達の手から、後進達の手に、経営の実権が移る時期だ。そして彼ら後進の経営者たちは、かつては合理的で論理的だった日本的経営の「情理」の部分だけが肥大化し、既存の経営手法に限界を感じていた時期でもあったので、スポンジに水が染みるように、アメリカ発の論理的な経営手法は日本企業に受け入れられていった。

     ただし、頭で「論理」の重要性は分かっても幼い頃から培った「価値観」まで変えることは難しい。相変わらず「情理」を大切にするリーダーは喜ばれ、危機に対して変革を唱えるよりは「いい人」が生き残る時代が続く。

     一方、現場では、「論理的に考えられる新たな世代」が台頭する(今の20~30代か)しかし、経営陣達は、「言うことはわかるけど、論理だけでは変革は出来ない。」という言葉をお題目のように唱え、リーダーシップを身につけるよう、後輩達を叱咤激励し、コンサルタントにもリーダーシップを要請することを求める。

     マッキンゼーをはじめとして、世の中の戦略コンサルティング会社の多くは、全て「リーダーシップ」について何らかのことを語っている。ようは、「ロジカルシンキング」で限界に来たから、新たな販売のネタとして「リーダーシップ」を全面に打ち出すようになっただけなのだが、それは経営者にとって気持ちが良い。企業側に「ロジカルシンキング」はないが、懐に余裕があった時代はそれを売ればよかった。それが当たり前になった今は、新たなメソッドとして「リーダーシップ」を売る。別にそれが悪いとは思わない。世の中に必要とされていることは事実なのだから。

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    話がそれたので、元に戻す。
    競争が激しく、イイ意味で弱肉強食であるビジネスの世界は、自然と情理から論理への転換が図られ、そして今は論理と情理の融合がはかられようとしている。しかし、政治の世界は日本に「民主主義」なるものが生まれた時代からほとんど進化していない。ビジネス的に言えば、自由民主党による「独占の弊害」が起こり、健全な成長が阻害されたのだ。

    ネットで議論している間は、外部から客観的に見て、論理的に考えることが出来る。
    しかし、いったん人物に会ってしまうと、その魅力にやられ正常な判断が出来なくなることもある。
    おそらく、亀井氏というのはあれだけ選挙に勝っていることもあるし、めちゃくちゃ魅力的な人物であることに間違いはない。

    ネットで議論している人たちのほうが論理的に正しいかもしれないが、
    票に結びつくのは「情」の世界であることを政治家は知っている。
    このギャップはでかい。まだ、「論理」の世界を抑えなくても勝てることを知っているから「情」で攻める。

     以前、ホリエモンの講演で聴いた話を最後にして終えることとする。「情理」で攻めることの恐ろしさを語ったエピソードだ。

     ホリエモンは小泉氏の郵政選挙の時、亀井氏と同じ、広島六区で無所属で立候補した。広島六区は全国でも高齢者の世帯比率が最も高い地区だそうだ。だからこそ、逆に、ここで勝てれば、どこでも勝てるとホリエモンは思ったそうだ。

     知っての通り、ホリエモンは選挙で敗れることになるのだが、ホリエモンが愕然としたのは、広島の尾道にたくさんある老人ホームに訪れたときのことだそうだ。老人ホームには、一人で歩くことすらままならなくなった方や、痴呆の方もいらっしゃる。というか、そういう人が大半なので、選挙で投票する人は、老人ホームの代表者がまとめて代理投票するそうだ。一人一票の価値は変わらない。

     しかし、この投票に個人の意志が反映されるかというとそういうことではないらしい。老人ホームに挨拶にいくことさえできれば、彼らの言葉を借りれば「公平に投票するため」、挨拶に来た議員に票を入れることが慣習として決まっているらしい。(誤解なきようにいっておくが、高齢者の方を非難しているのではなく、仕組みがアヤシイことになっているということをここでは述べたいと思っている。)

     数字はうろ覚えなので、許して欲しいが、ホリエモンの郵政選挙の時は尾道にある36?とかの講演ができるような老人ホームで、ホリエモンが挨拶に回ることが「許された」のは僅かひとつ。その一つの老人ホームに関しては、ホリエモンと亀井氏に半々で票が入ったが、他の老人ホームはおそらく全て亀井氏に入っただろう。ということだった。

     情理は肥大化すると、恐ろしいモンスターと化す。

     いや待てよ、組織票を抑えることが最も手っ取り早い当選の手段だ。ということが亀井氏は分かっているので、論理的にゴール(=当選)に最も近い手段をとり、国民に対しては情理(=弱者や地域の見方)でペテンにかけている。ともとれる。いずれにしても、「情理」を巧みに扱っていることに代わりはないか。そうでないと国会議員なんてできない。

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    今の時代、論理で人を動かす力も、情理で人を動かす力も求められている。
    片方だけだとうまくいかないが、大半のひとは片方しか得意じゃない。
    片方が得意であれば、それなりに生きてこれたから、苦手なほうを伸ばす努力を怠るのだ。

    論理と情理という単純な2元論でものごとを捉えるな。という批判もあるだろう。
    それはその通りだ。

     ただ、ネットで発言しているだけの自分への自戒を込めていうのであれば、強大な統率力を持った人を前にしても、論理的におかしいモノはおかしいと言える強さを持たなければならない時代になってきていると思う。そして、言うだけではなく、心にまで訴えかけて、変革を促すエンジンとなる人に一人でも多くの人(ネットユーザー)がなるべき時代になってきたんじゃないか、と思う。

    Posted by fukui @ 4:44 PM

  • 2 Responses

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    • gutti Says:

      結論、いたく同感です。私はちょっとだけとらえ方が違うのですが、「論理的におかしいモノはおかしいと言える判断力を身につけやすい時代」がいまだと思うのです。

      声のよさ、演説のうまさ、迫力、人柄など、国家や経営そのものの戦略や方針を判断する要素としてはどうでもいいことが、人々の判断基準の多くを占めている事実。でも、それが衆愚政治やプロパガンダの元凶にもなりえる事を感じながらも、冷静な判断ができないというのが悲しい人間の性ですね。
      (* 感情的な部分に訴えかけるものこそが集団を動かしていく上では重要であるという議論はもう不要だと思いますのでここでは触れませんが。)

      でも、感情的なものをいったん排除して思考してしっかり理論武装すれば、論理的には正論といえるものをもって、『おかしいモノはおかしいと言える強さ』を打ち出せるんじゃあないかと思いますし、訓練と経験の積み重ねによってそうなっていくんだろうと思いますし、そうなれない以上は、国や組織を良い方向に導くことは難しいと思いますね。

      ※ただ、論理的な結論といえど、取り上げられた情報やデータ、その人の知識・経験・意識だけで導かれる結論が正しいとは思いません。これらが低いレベルである人間が責任あるポジションにつくと、短絡的だと思われる方向に結論付けられることが多々あります。
      ですから、見落としている変数、意識を超えた無意識の中にあるものや直感的なものに対しても謙虚であるべき、と思います。

    • fukui Says:

      guttiさん、コメントありがとうございます。

      >ですから、見落としている変数、意識を超えた無意識の中にあるものや直感的なものに対しても謙虚であるべき、と思います。

      「謙虚」であるべき。まさにその通りだと思います。論理的思考の問題点の一つに、インプットが異なればアウトプットが異なってくる。という問題があると思うのですが、だいたい人間ってのは完璧なインプットっていうのは出来ないようになってるんですよね。

      だから、真に優れた人は「直感に対しても謙虚である。」のだと思います。三枝さんが書かれた戦略プロフェッショナルで、同様の直感の重要性を語られてました。

      ところで、郵政民営化は凄く残念です。
      亀井氏は全て計算尽くで演出していると思われるので怖いです。
      なんとなく、いいたいことを代弁してくれている記事を見つけたので投稿します。

      http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51590683.html

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