最近、「幸せになるために何を学ぶべきか。」ということを良く考えます。
このゴールデンウィークに急に思い出したことが、幼い頃に「子供の日」のイベントで近所の公民館で見たアニメ、「とししゅん」です。芥川龍之介の作品「杜子春」がベースになっているのですが、あらすじは次のようなものです。
若者が、洛陽の西門の前で野たれ死のうとしていたところ、ある仙人に出会い、「何が欲しい?」と聞かれます。
若者は「金が欲しい。」と答えたところ、仙人は願いを叶え、若者は大金持ちになります。
若者は屋敷も友達も手に入れ贅沢三昧をしますが、金を失うとともに、全てを無くして、また西門にたたずむことになります。
仙人と再開し、「何が欲しい?」という二度目の問いに、「力が欲しい」と答え、最強の武具を手に入れた若者は、戦に連戦連勝。また取り巻きと財産を築きます。しかし、力を過信した若者は、一度戦に敗れたことで、また全てを
失ってしまいます。(芥川龍之介の童話では二度目もお金をもらうことになっていますが、僕は「力が欲しい」と答えるアニメ版の話のほうが好きです。)
無一文になって、仙人と三たび再開した若者は、次の仙人からの問いには、ほとほと人間に愛想を尽かしており、「仙人になりたい。」と答えます。
若者の仙人になるための修行は「何があっても口をきかないこと。」地獄に落とされ、辛い責め苦にも耐える若者ですが、地獄の鬼にめった打ちにされる母親の姿を見て、「お母さん!」と思わず叫び、現実に連れ戻されます。(芥川龍之介の作品のもととなった中国の『杜子春伝』では、自らが産んだ子供を殺されたときに、思わず叫んでしまう。という形を取っています。)
仙人になれなかった彼は、人として生きることを決意する。という結末で、幼い頃のアニメの記憶だと、「杜子春バカだなぁ」「救いのない話だなぁ」と感じるだけだったのですが、大人になるとまた違った感慨深さがあります。
・全てを得るために、「金」を得た。しかし全てを失った。
・金ではなく、それを得る手段が必要だと感じ、「力」を手に入れた。 しかし、また全てを失った。
・最後に若者は「心」の高みを得ようとして仙人になるための修行を積んだ。しかし、母親が責められる姿を見て、思わず叫んでしまい、その道を閉ざされる。
作品では、明確に表現はされていないけれど、大人になった今考えてみると、
「今、人として生きていること。それ自体が素晴らしいことである。」
というメッセージが込められていたのだな。と気付きます。母親(あるいは子供)が酷い目にあっているときに、叫ぶことすら出来ない人生に、なんの価値があるだろうか、という芥川龍之介のメッセージが伝わってきます。
学生向けのスクールや講演では、私も「新入社員の頃は、正しいことを主張・実行できるようになるための力をつけなさい。」と伝えています。
社会人となった今、私自身は「心」や「志」を磨きたいと考えていますが、もう少しすると、今、こうやって生きていること、生かされていること自体に感謝する時期がくるのかも知れません。(まだ、そこまで達観は出来ていないのですが、きっとそういう時も来ると思います。)
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魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えなさい。(老子)
この言葉は大変有名な言葉ではありますが、お金を与えるのではなく、得るための力を。
心のあり方を教えるのではなく、磨き方を伝える。ということが教える側にとってはより重要だと感じます。
そして、
「幸せになるために、何を学ぶべきか。」
その問いに対する答えは、自分自身の興味・関心に加えて、 今までの経験、時期によってもきっと変わってくるものだと思います。





